「小さい頃は本が好きな子だった。」

お母さんやおばあちゃんによく言われた。

私の記憶にも本の思い出がたくさんあるから、本当に好きだったのだろう。

靴を手掛かりに自分を探してくれる人も、真実を教えてくれる鏡も、すべて心の中に確かに存在していた。

だけど私は少しずつ本から離れた。

意識的にそうしたわけではない。

生活の中から徐々に、気がつかないうちに本の存在が薄れていった。

部活や習い事、勉強、友達。

大切にしたいと思うこと、少なくとも当時はそう思っていたことが多すぎて、読書がまるで“無駄な時間”のように思えてしまった。

そんなことはない。

今ならはっきり言えるけど。





私が本と再会したのは、中3の夏だった。

志望校のボーダーくらいの成績ではあったものの、塾などへ通っていなかった私は、私なりに必死に勉強しなければいけなかった。

しかしどうして家というのは誘惑が多いのか。

しかたがないので図書館で自習室を借りることにした。

それでも集中できるのは数時間。

その数時間の勉強の後、おもむろに本棚の間を歩き始めた。

図書館内は、露出した手足に涼しく心地よい空気が触れる。

たとえ温度設定が同じでも、自習室とは全く違う。

本の匂いがある。

数時間前にここに来た時も、はっきりと感じ取れた本の匂いだ。

懐かしいようで新鮮なその匂いに惑わされていると、ある有名な作家のコーナーが設けられているのが目に入った。

「久しぶりに・・・」

2冊の小説に手を伸ばした。

その2冊を選んだ理由も“本の匂い”だった。

10代の少女が主人公の小説。

その匂いは私という10代の少女を引き寄せた。



それから、それまで年に数冊しか読まなかった小説を週に1冊のペースで読んでいった。

決して読み流すのではなく、確かに何かをつかみながら読んでいた。

伝記や思想の本にも興味がわいたけど、どうしても小説を借りてしまった。

今思えば、私にはまだ「理想」と「現実」や「虚構」と「現実」を区別する力がなかったのだろう。

だからはっきりと「この物語はフィクションです」と告げてほしかったのだ。



冬が来た。

寒くてもこの季節が一番好きだ。

澄んだ空気はなにもごまかさないし、木々も葉を落とし枝のすべてを見せてくれた。

風が冷たかったが、やはりあの日も私は図書館に向かった。

自動扉が開き、暖かい空気が私を包んだ。

入ってすぐ、カウンタの正面に小さな棚が増えているのに気づいた。

3日前に来た時にはまだなかった棚だ。

その棚の前には一人の男の人が立っていた。

名前は知らないが、顔は知っている。

初めて見かけた時、私が志望していた高校の生徒だと制服でわかった。

それから何度も何度も図書館で見かけた。

言葉を交わしたことはなかったけれど、お互い印象には残っていた。

私もその棚が気になったので、その人の横に並ぶ。

私が少し頭を下げて一歩進むと、その人ははじめて声をかけてきた。

「君もこの棚、気になったの?」

「あ、はい」

図書館なので声は当然小さいが、すごく聞きやすい声だった。

「面白いコーナーだよね。じゃあまた」

彼はにこりと微笑んで図書館を後にした。

彼の声は本当に聞きやすく、私の耳に鮮明に残っていた。



何秒もの間、彼が出て行った図書館の扉を見つめていた。

ふと棚に目を戻すと“本を書いてみませんか”と手書きで書いてあった。

棚の中には数冊の本が入っていたが、それらは司書さんが書いたものらしい。

そしてこの棚はこれから、一般の人の本を並べる予定なのだと書いてある。

本を書き図書館に持っていくと、何も問題がなければ誰の本でも置いてくれるそうだ。

本を書くなんて自分には想像もつかないけれど、この棚にはとても興味がわいた。

誰でも作家になれるなんて、夢があって素敵だとなんだかわくわくした。

数日後その棚には、早速1冊の本が増えていた。

「“小説の主人公”・・・」

少し変わったタイトルだと感じたけれど、なぜか耳になじんだ。

その棚の本は借りることができないらしいので、近くのいすに座って読むことにした。

『図書館にはさまざまな本があり、いろいろな人がいて、独特の空気がある。』

『その人が読む本で性格が出ることすらある。』

『本という共通の趣味が巡り合わせる出会いだってあるかもしれない。』

『小説を読んでいる彼女は、自分が主人公になっているなんて気づきはしないだろう。』

本の内容は、無名な作家である主人公が図書館で自分の本を読んでいるヒロインを見つけ、恋に落ちていくというものだった。

最初はファンをみつけた喜びだけでヒロインを見つめていた主人公だったけれど、ヒロインをモデルに小説を書くことで自分の気持ちに気付いていくストーリー。

結末は切ない終わりなのに、暖かい気持ちになれる本だった。

もちろん素人の書いたものだから、小説として不十分な点はいくらでもあるだろう。

でも私は好きだ、とそれだけ思った。





受験が終わり、無事志望校に合格することができた。

受験勉強はもう必要ないけれど、図書館や自習室には相変わらず通っていた。

図書館には本を借りるために。

自習室には本を書くために。

彼にも何度も会ったけれど、あの棚の話も自分が書いている小説の話もしなかった。

なんとなくしづらかった。

自分が小説を書くなんて、自分自身いちばん驚いているくらいだったから。

うまく文章がまとまらないし、構成も決まらず、なかなか進まない小説だったけれど、とても楽しい時間だった。

一文一文、一語一語、だんだんと主人公が気持ちをあらわにし、周りの人物だけでなく周りの風景までもが文字になっていく。

不思議な感覚だった。

内容はとてもうすっぺらいけれど、主人公に自分を投影していたのでウソはつけなかった。

ただ、自分の思いや考え方、周りの出来事を書いていった。

舞台は主に、図書館。

主人公の少女は作家に恋をするのだ。

そしてその作家に思いを届けようと本を書く。

小説など書いたこともないのに、必死にストーリーを紡ぐ。

あの棚にあった本の影響で書いたとしか思えない内容だったが、自分は満足だった。

私の処女作があの棚に並んだのは、高校の入学式を終えてすぐのことだった。




高校に入り、部活を始めたこともあり図書館にはなかなか行けなくなった。

しかし図書室で本を借りたり、家で本を書いたりと、本が生活の中から抜けることはなかった。

ある昼休みもいつものように図書館で本を読み、1冊を借りて出ようとした。

「学校で会うの、初めてだね」

いつもとは違う場所で聞いた声だったが、聞き間違えるはずはなかった。

「本当ですね」

あの棚の前にいた彼だった。

しばしの沈黙の後、先輩が話を切り出した。

「突然というか、今更だけど・・・」

先輩は言いかけてから少し俯いた。

もう一度顔をあげてゆっくり話し始めた。

「作家に恋する女の子の話、書いたの君じゃない?」

私は笑顔で答えた。

「じゃあ読者に恋する作家の話を書いたのは先輩ですか?」

彼は驚いた表情をした後、目を細めて笑った。

「よくわかったね」

「だって文章が聞きやすかったので」

“小説の主人公”

あんなに読みやすい文章は初めてだった。

読めば読むほど音が聞こえてきた。

文字を追うというよりは、音声を聞いているような感覚だった。

その音声はとても耳になじんで、心地よかった。

そしてその耳になじむ声の持ち主は彼しかいなかった。

だから私はあの本に向けて、自分で小説を書いたのだ。




「そうか・・・本はやっぱりいいね」

そういう先輩の表情はとてもやわらかく、素敵だった。

「そうですね」

私はどんな表情で先輩に返事をしていたのだろう。

きっと今までで一番の表情だったに違いない。

だって私はハッピーエンドを目指している、小説の主人公なのだから。









・・・・・・・・・・あとがき・・・・・・・・・・

あまり書いたことのない雰囲気の話が書きたいと思っていたのですが、そうでもないですね。(笑
でも本を通じて・・・というのは前から書いてみたい話でした。
音楽とか本とか絵とか、心が通じ合うものって素敵だなぁと。
大学に入って数学ばかりやり始めてから、特にそう思います・・・。
無機質な文字が並んでいるのにそこにはいろいろ詰まっていて、それが本のいいところなのではないかと。

ちなみに最初にこの話を書いたとき、先輩がただのナンパ野郎みたいになって焦りました。
自分で書いて笑ってしまいましたよ、えぇ。



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